バーレーン王国大使館

歴史

~ディルムンの栄光~

ディルムンの栄光

ディルムン時代の印章

バーレーンが歴史に始めて登場するのは紀元前3千年頃のことです。当時はディルムンと呼ばれていました。ディルムン時代の文明の全貌はいまだに解明されていませんが、発掘作業によって息を呑むような文明の秘密が次々に明らかになってきています。最近の発掘調査によれば、その生活様式は大変に規則正しいもので、きちんと整備された道路や住宅、作業所や中央市場があったことも明らかになりました。

さらに重大な発見は、数千もの古墳です。これらの古墳は、それぞれが石室を覆うような形で作られています。かつてバーレーンには15万以上の古墳があったとされていますが、その大部分は道路建設などで破壊されてしまいました。それでも、現存する古墳に見られる緻密な埋葬様式からは、当時の社会文化が非常に高度に発達していたのかが見てとれます。

ディルムンは、不老不死の地としてギルガメシュ叙事詩にも記されています。ディルムンは、メソポタミアとインド亜大陸の中継地に位置するばかりでなく、その青々と茂った緑野と豊富に湧き出る水のおかげで、海上交易の一大拠点となりました。メソポタミア・インダス両文明間の交易が繁栄するにつれ、ディルムンもまた大いに栄えたのです。この交易都市は、現在バーレーン要塞のある場所にあったとされています。

イスラームの到来と大航海時代

青銅製の牛頭 

しかし繁栄の時代も長くは続きませんでした。紀元前1800年から1600年にかけて、アーリア人の軍勢がディルムンを侵略し、インダス文明の諸都市を破壊したため、ディルムンは海上貿易の要所としての地位を失いました。以来バーレーンは自存自営を続け、紀元前1000年以降には、アッシリア帝国の属領として再び繁栄の時を迎えます。バーレーンは真珠狩りと漁港の島としてその名を馳せましたが、その良質で豊富な真珠の収穫は、招かれざる紛争の種も呼び込むのです。

紀元前600年頃、バーレーンは新バビロニア帝国の属領でした。ギリシャ人達はこの島をギリシャ名でティロスと呼び、入植を始めました。バビロニアがペルシャ帝国に敗北し、地中海からインド洋に至る巨大な領土をペルシャ帝国が支配するようになってから、交易地としてのティロスの重要性は増し、紀元前323年、バーレーンは再び独立を果たしました。

~イスラームの到来と大航海時代~

バーレーン・フォート

バーレーン要塞

この後千数百年の間、バーレーンは穏やかな時代をすごすことになります。初期イスラームの時代にはバーレーンは、ワエル族が信仰した多神教の偶像の名にちなみ、アワルという名で知られていました。イスラーム到来後、この地はバーレーンと呼ばれるようになりましたが、当時は北はイラクのバスラから南はオマーンまでの広い範囲がこの名で呼ばれていたのです。

1500年代初頭、大航海時代に新たな海洋航路を開拓していたポルトガル人は、インド、アフリカ、ヨーロッパを中継する交易拠点として、バーレーンに着目しました。ポルトガル人はこの島を占領し、要塞を建設しました。現在もこの要塞はバーレーン要塞として残されていますが、通称をポルトガル要塞と今でも呼ばれています。しかし1603年、この地はペルシャ人の手に陥落し、その後もこの地をめぐり、ペルシャ人とアラブ人が激しく抗争を続けてきました。

~そして21世紀、新たな時代の幕開け~

そして21世紀、新たな時代の幕開け

バーレーン世界貿易
センタービル

1783年、シェイク・アフメド・ビン・ムハンマド・アール・ハリーファが、ついにこの地を陥落します。ここにバーレーンの歴史は新たな幕を開けるのです。真珠貿易を一手に担ったアール・ハリーファ一族は、近隣の部族の侵入を妨げながらも、1800年代には英国との間に防衛と外交を英国の手に委ねる趣旨の保護条約を取り交わします。1932年には、アラビア湾岸諸国で初めて石油の生産を開始しました。以来、バーレーンの近代化は急速に進みます。

1971年8月14日、バーレーンは首長国として独立を宣言し、1973年5月には憲法が発布されました。1999年、前首長の逝去に伴い即位したシェイク・ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファは、政治改革に着手し、2002年2月には憲法を改正して王制へと移行するとともに、二院制国民議会を設置して普通選挙による代議院選挙を実施するなど、民主化路線を進めています。